民俗文化財
2000年(平成12年)南洋踊りは、東京都指定無形文化財に指定されました。
その際に作成された文書です。
小笠原の南洋踊り
1、指定種別
東京都指定無形民俗文化財
2、伝承地
小笠原村
3,保存団体
南洋踊り保存会
4,沿 革
小笠原の南洋踊りは、大正末から昭和の初めにかけて、仕事で小笠原からサイパンなどへ出かけていた、
ジョサイア・ゴンザレスによって南洋諸島から伝えられたものと言われている。
伝えられた踊りはやがて、島の青年達に座興の踊りとして受け継がれてゆくことになるが、
この踊りの伝承、普及に大きな役割を果たしたのが、菊池虎彦であった。
彼は東京帝国大学農学部を卒業後、郷里小笠原で尋常高等小学校教員に就任し、後、
小笠原支庁に奉職しているが、当時、夜間に開校されていた青年学校において、島の若者達の教育にも当たり、
そこで、南洋諸島から伝えられた踊りを教えていた。
それが現在伝承されている小笠原の南洋踊りである。
南洋踊りは、昭和10年代初めには母島にも伝播しているが、父島では村内の演芸大会などにおいて
しばしば演ぜられ、郷社大神山神社例大祭の日には、波止場付近に仮説の舞台を設け、
ここでも南洋踊りが行われ、島民の間に座興の踊りとして広く普及していった。
昭和13~14年頃には「南へ」という題名の芝居が、青年学校の若者達によって演じられたが、
その劇中でも、南洋踊りが踊られていた。
その後、戦時色が強くなると、かって青年学校で学んでいた若者達も徴用され、軍属として軍隊で
働くようになるが、彼らの一部は、本土から派遣されてきていた兵隊を慰問するため、
軍隊内の演芸大会などでの余興として南洋踊りを踊っていた。
昭和19年、島民は戦争の激化にともない、本土に強制疎開させられ、南洋踊りの小笠原での伝承は、
一時、途絶えることになるが、島民達は疎開先での仲間同士の集まりでは、故郷の小笠原を懐かしみ、
折を見て南洋踊りを座興で踊っていた。
昭和43年、小笠原の本土復帰にともない旧島民達は帰島することになるが、
南洋踊りは、帰島した浅沼正之らの努力によって、
再び小笠原の地で伝承されることになり、今日に至っている。
なお、「南洋踊り」の呼称は、返還時の昭和43年頃までは一般には「土人踊り」などと
言われていたが返還を境に現在の名称が使われるようになった。
返還40周年パレードにて、東町付近。
5,内 容
南洋諸島から伝播し、小笠原の民謡として伝承されてきている「ウラメ」、「夜明け前」、「ウワドロ」
「ギダイ」、「アフタイラン」の5曲をバックに手足を動かし、やや中腰で、
時々尻をたたいて調子を取るなどの所作を行いながら、集団で連続して歌い踊る踊りである。
6,参考事項
(1)保存会の沿革
昭和56年に南洋踊りの保存会が、戦前、小笠原の青年学校で南洋踊りを習い覚えた旧島民を中心に作られたが、
平成元年2月には、その会を母体として広く島民に呼びかけ、「南洋踊りの保存・振興を図ること」を目的とした
現在の保存会が結成された。
平成元年以降の活動は次の通りである。
(中略)
このように保存会は、会結成以来、毎年、村の返還記念祭などの催しの時に出演し、島民などに踊りを披露し、
活発に活動している。
(中略)
(2)会員名簿
(略)
(3)南洋踊りのバックミュージックとなる曲目の5曲は、昭和62年3月30日付けで、
東京都無形民俗文化財「小笠原の民謡」に、指定されている。
7,参考文献
(略)
8,指定理由
亜熱帯に属する小笠原諸島は、東京都の最南端に位置し、
そこに人が暮らすようになってからの歴史はわずかに百数十年あまりにすぎない。
しかし、その歴史を語る時、戦前におけるわが国の南進政策との関わりから、
南洋諸島との交流を抜きに語ることは出来ず、そこで培われたきた文化も南方の影響を強く受けている。
小笠原の南洋踊りは、そのような歴史風土のなかで、南洋諸島から伝えられ、
座興の踊りとして小笠原に伝わる南方系の民謡とともに踊り歌い継がれてきたものであり、
小笠原における文化伝播の実態を知ることが出来る貴重な学術資料である。
まだまだ東町…。
いよいよ西町! ゴール間近よ!